se-1


    青春の会話


ラ・マルセーズ藤間生大(とうませいた)先生


戦争が終わり、
敗戦の辛さも忘れ、一気に<デモクラシーの波>が押し寄せてきた!!
戦後、GHQの指導で新しい学校制度が生まれ、浦和中学が浦和高校に昇格し、
あと3年間同じ校舎で、浦和高校として学生生活を送ることになった。


浦和中学と浦和高校の時付けていた徽章

 浦和高校徽章のはなし
戦後、浦和中学から浦和高校に昇格したとき、
校内で徽章デザイン公募がありました。
其のとき、
臼井喜一くん (JIJI青年と芸大油彩科に進学…卒業後アメリカで活躍)
デザイン(銀杏の葉を3枚)が入選して、母校に受け継がれる事になったのです。
母校の庭に、伝統の大銀杏があり、それを象徴するデザインです・・・



一気に<デモクラシーの波が押し寄せてきた!!
進駐軍放送というのがあり、初めて聞いたJAZZなんて感動だった。

私は幼い頃、小児麻痺になって、軽かったけれど、、、ややびっこの気があった。
びっこを目立たぬよう… 努力しているうちに自信が付いた…
成長期で体力の付いてきたこともあり、苦手意識が消え自分からスポーツをやった。

走るのは遅かったけれど積極的にスポーツに参加出来るようになってきた。
バスケット部に入った。

自分でも、胸板が厚くなり、体力が付いてきたのを感じ、体格的にも自信がついた・・・
戦後一気に迎えた、わたしの青春であった!!

文化部活動で、美術班に入り絵の仲間にも巡り合った!!
近藤正小松崎邦雄臼井喜一田口良朗手嶋有男
一角の作家になったこれ等の友人はClick浦高美術班の同級生だ。。。

近藤くん(芸大に一緒に行った)の親が映画館を始めたので、家族パス?
ただアメリカ映画を幾つも見た・・・ぴかぴかの名画たちだ。。。



デモクラシーを称え、教壇で拳(こぶし)を振りながらフランス革命を語り、
ラ・マルセーズ♪を唄った、
社会科の藤間生大先生の授業は、新鮮で素晴らしかったが、
藤間先生は間もなく、戦後のレッド・パージ赤狩り)という政策で追放されてしまった。


何故?どうして?どうなった!
歴史は暗記するものじゃない! 考えるものだ と説かれた。


先生を慕う生徒たちで、復職要求ストライキもしたが、生徒の力の及ぶ所ではなかった。
アメリカGHQの指導政策と方針は絶対だった。

ストライキ先導の一人、芹沢寿良くんは家の近くに住んでいた親友だったが、
後年大学教授になった。
とても親しかったのだが、其の頃のあるとき
霊に生きるか? 肉に生きるか?」という
謎めいた言葉を最後に、、、行き来しなくなった??
後年の同窓会で、普通に付き合っているが、青春の会話は謎のままだ・・・
お互いに歳を取り過ぎた・・・・・・




inserted by FC2 system