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芸大入試
浦和に混声合唱団を主宰しておられた桑原ウメ香先生と云う女傑がいた…
当時にしては女性に珍しい、刈り上げ頭の男性的な?女性だった。
高校の頃、JIJI青年の声楽の才能?を認めて呉れた先生が、発声の基本を無償コーチしてくれた。
♪あーーえーい−ーオーうーーーっ …というやつである。
本人も案外真面目に、いっとき声楽家なんて?考えた…
毎日音楽コンクール出場記念バッチと浦高美術班バッチ
高校の美術班 (^ ^;;古いネー に入って、友人達に恵まれ、先輩にも恵まれ
わけても日本画家・福宿一穂(フスキイッスイ)先生と云う最高の指導者に出会って、絵描きになりたい!と思った。
今思えば褒め上手で、JIJI青年に絵の面白さの窓口を案内して下さった。
CLICK福宿先生を囲む
わたしは、美術班仲間と交わるまでは、両親の希望もまじえ??医者になろうと思っていたのだ…
小児麻痺を経験したこともあり、医者の有難さを、イヤっと云う程母に聞かされて育ったのだ。
ところが… 自分は鼻血を見てもダメという <血に弱い>自分に気が付いて、
医者… 特に外科は向かないと知った。
母は絵描きになりたい…というJIJI青年に、アキラメの引導をわたしてもらおう??と
音楽畑の桑原ウメ香先生に頼み込んだらしい・・・
桑原先生の紹介で、裸婦の絵で高名な寺内万次郎先生の処に引導を渡・さ・れ・?に行った。
母親の目論見は裏目に出て 「やめさせたらカワイソウ…!」と言うことになって、
はれてJIJI青年の絵描きコース…美術班生活にリキが入った。
学校の始業時間に間に合わなくなるほど、登校前に自宅アトリエ(3畳間)で絵を描いた。
(遅刻の)神様というあだ名もここから貰った。
当時の傑作 3号板油彩 あじ
学校でも美術教室の控え室を開放して貰って、放課後から暗くなるまで、
もう亡くなった友人達… 近藤・小松崎・臼井達とデッサンの勉強をした。
指導の先生は、芸術院会員になつた洋画家・高田誠や、人間国宝(彫金)の増田三男なのだから、
恐れ多いはなしなのであるが・・・
みんな福宿一穂先生の教え子、兄弟子になる。
かくして… 後に語り草になった、華の芸大25年組、大量同時入学の学年が誕生した・・・
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