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  裸婦を描く  


 芸大入試の前
今から思うと、コバルト画房・わらび画塾・野本絵画教室… 画塾に、何箇所も行かせて貰った。
「父親の反対で月謝を出して貰えなかった などと言っているが?、
そう思うと、かなり親の協力と理解があったのだと反省せざるを得ない・・・^o^);;;

コバルト画房も、今は、さいたま県庁の傍に大きな店を持つようになったが、
自動車学校の跡地の北向こう、住宅地(本太)の一廓、しもた屋が店舗で、
玄関脇が売り場、奥の8畳位の畳部屋がアトリエで、
そこで始めての<裸婦クロッキー>を描いた。

高校生で初心(うぶ)だったわたしは、恥ずかしくて、なかなかまともに見詰められなかったが、
いつも、モデルの真正面、すれすれに陣取って大胆に描く人が居た。
それが、後年の二科会・斎藤三郎氏であった。 氏はスペインの踊り子の絵で有名になった。

当時、わらび画塾は、美大進学塾として有名で、まだ採光舎など無かった。
少し通って、石膏デッサンを本格的に習ったが、続かなかった。

野本絵画教室は、今から思うと大分通い、野本先生に基礎を教わった。
先生は高砂小学校の絵の先生で、睡蓮の絵を得意としたが、何故か自殺されてしまった。


高校では、先輩達に恵まれ、福宿(ふすき)光雄先生に巡り合い絵描きになりたいと思った。
芸大美術学部に近藤正史・小松崎邦雄・臼井喜一・手嶋有男・わたし・・・ 
五人も同時入学したのは、芸大の記録だったようである。 
全国各地から集まった、学生たちの少数の中で、うらわ組5人は特異な存在だった。

近藤君は早熟な天才肌で、仲間の誰よりも早く、二科会で会員になったが早世した。
30才そこそこだった。
小松崎君はNHKの絵画講師をしたり、舞妓の絵で有名になったが、やはり亡くなった。
臼井君は米・ニューヨークで活躍していたが(2002.7.5.東京にいるお姉さんからのお便りで)
3年前ミシガン州で亡くなられたのを知って悲しい。
手嶋君は芸大工芸科の教授を最後に勇退して、作家活動している。
わたしは別の路をあるき、いまのJIJIだ・・・

のちの人間国宝・増田三男先生に工作を教わり、
芸術院会員・高田誠先生、仝芸術院会員渡辺武雄先生も
まだ平会員で、同窓会仲間だったのだから、恵まれた環境に居たのだが、
何故か、超有名になった先輩と、そりが会わなかった??

芸大入試発表は玄関脇の木造校舎の板壁に合格者が貼り出された。
朝一番に見に往って来た近藤くんが、全員合格ダ!と皆の家に報告して回ってくれた。
わたしは自分で確認したくて、解っているのに見に行った。
上野校舎の板壁…忘れられない思い出なのだ。

入学してすぐには<裸婦の勉強>はさせてもらえない・・・
絵画実技は午前中から午後まであり、
学科は午後にあったが、単位をとるには意外と厳しかった。

一年目は明けても暮れても、石膏デッサン石膏デッサン! だったから、
西田教授の<人体美学>や、<哲学>の方が面白く、学科授業はサボらなかった。

わたしの成績簿の哲学だけが<>だったのは、自慢になるだろうか??

入学2年目(二年生)になって
始めて裸婦を描かせて貰えるが、絵の具は使えない。
対象は裸婦になったが、また明けても暮れても、木炭素描なのだ・・・

油絵の具では、授業外の自由時間に構内・赤レンガの作品倉庫などを、気ままに描いた。
花壇や動物園は自由製作の特等席だった。


教室の裸婦  25号油彩

三年目に始めて、教室で<裸婦油彩>を描かせて貰えた嬉しさは格別だった
其の頃には<裸婦ズレ?>してきて、職業的に?生物学的♀でなく観察する
基礎と、ゆとりが付いて来たような気がする・・・
四年目は卒業製作以外、きわめて自由な時間と製作で、美術館にいりびたった。




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