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卒業制作 |
芸大在学4年間の<集約>が卒業制作であり、其れに向けてカリキュラムが組まれていた。
古めかしいことを言うようだが? 芸大の前身:国立東京美術学校は、創立から、美術の専門家を
育てることは勿論、将来の芸術教育者を育成する為の学校だったことが忘れられ勝ちである・・・
学生帽もちゃんとあって<美>の金文字が正面に大きく付いて輝いていた。
東京美術学校帽章 と 芸大校章(黒い柏の葉)
わたしは、大先輩青木繁に憧れ、傑作:<海のさち>や天平ものに心酔していたので、何の下地も
無いのに… 卒業制作100号の題材に、天平寺院の中の<戴冠式??>の絵をえらんだ。
そのころ、わたしは自宅に10畳ほどのアトリエを、仲間の誰より早く持っていた。
絵描きになるのに反対して月謝を出して呉れなかった父だが、農家の納屋を、物物交換で買い取り、
庭先に、アトリエとして建てて呉れた。
(食料難で農家と食料と衣料などの交換をしてた時代なのです)
わたしの卒業制作<天平>は自宅のアトリエで描いた。群像だったが一人のモデルさんにいろいろ
ポーズしてもらって組み立てた。 名前は忘れたが後に浦和警察の婦人警察官になった人で、モデルを
してくれていた頃も警察官だったかどうかは定かではない・・・ メンスのときも通ってくれた。
当時、卒業制作として、他にもう一つ15号P型で自画像を提出する決まりになっていて、全卒業生の
自画像が、多分買い上げられた?と思うが学校に保存される事になっていた。
卒業生優等作品一点は学校買い上げになり名誉の永久保存となる… わたしたちの時は高校美術班
からの仲間、一水会委員になった小松崎邦雄くんのピカソ調の坐像だった。
社会人になって何十年も経って後、芸大記念行事の展覧会で、自分の青春の自画像を卒業生選抜の
作品の中に観た時は、誇らしい… というよりも恥ずかしかった。
青木繁を意識した漢字の書き込みのある、毬栗頭の自画像だった。
わたしの100号の作品は、卒業制作展のあと、只の邪魔モノ?、、、置き場に困り、
枠からはずして巻いて、天井裏に上げて置いたら、ねずみの巣になってしまい、捨ててしまった。
今から思えば惜しい・・・
そんな経験から、後年後輩たちに嫌な作品も、取っておくのが進歩ダなどと言って来たが、実際は
昔の作品は、みんな消してしまいたくなるのが、裏返しの作家の気持ちでもある!!
貴方のどれが良い絵なのか?と聞かれるとキザなようだが<「こんど描く絵!」>と答える所以でもある。