so-1

    務め人から商売人に転機の筈が・・・

  

親の支援が貰えなかったし、自活せざるを得なかったから、
芸大を卒業して直行で、映画会社東映に入社…宣伝マン。 大した働きも出来たと?思えないが,
18年間を大過なく過ごし、お世話になった…。 からだを壊したのと、自分の<先>が見えてきたら、
会社務めが嫌になり「辞めたい」と言ったら、すんなり家内が受け入れ協力してくれた。

まだ、娘二人も幼く、女房にとっては、大冒険だったと思うが
生活能力のないわたしJIJIに、1階甘味や2階画廊の店を出そう… という。
そして早速、浦和駅前の甘味老舗・ときわだんごさんに修行の申し込みをしてきた…

そこまで行けば、設計・企画はJIJIの持ちや… 守備範囲だから熱が入った。
デパート規模で、店の什器・備品のデザインを凝り… ロゴデザインもその時決めた。

 あいづの歴史(建築当時の計画パース)
OPENにあたり、建築装飾の計画を描いたノートです。

甘味:あいづ 1970OPEN
◆木の塀の一部を壊して店を造りました。
◆木の塀・右部の家が後の車庫になりました。


1977年、甘味あいづからPUBUAIZUに移行

 


家内の田舎が会津芦の牧の福満荘(後の芦の牧グランドホテル)だったから
屋号は地名を貰って、甘味あいづ
什器の仕入れに浅草・合羽橋の問屋街にも通った。

 設計同人・中原暢子さんの協力を得て、鉄筋モルタル2階建ての店
1階甘味あいづ、2階アトリエYAMAがOPENした…1970年(昭和45年)日であった。
幸せな事にこの移行を、東映に籍を置いた状態でさせてもらった m(_ _)m

店は大当たりで行列が出来るほどだったが…7年ほどで、若い女性の<あんこもの>離れ
コーヒーとケーキの時代が来て、オイルショックも重なり、甘味やの一時代が去った。
幼い娘二人は<犠牲者>… 
食卓も無い店の俎板で、つま先立ち…背伸びして立ち食いする生活で育った。。。

その7年間、本業の絵も、少し熱が入り描いたが、すぐにだらけて2階に仕事場が
出来たのを、さいわいに2階に逃げ込んで、プラモデルのオートバイや帆船造りにのめり込んだ。
画塾を開き生徒さんを教えたのもこの頃だった。
その頃の生徒はみな、いい年のお父さんお母さんだ・・・
その頃の産物が家に残り、こんにちのボトル・シップ/S造りに繋がっている

変わり身の早かった家内ママは、旬の肴を提供する高級志向の店に切り換えると言うので
1977年(昭和52年) 絵のあるPUB ROOM・AIZUが誕生 ⇒ JIJIマスターになった


PUBAIZU 店内


風雪の三十数年だったが… 家内BABAの生活力に寄生して来た感が強い

それを知りながらありがとうとかごめんが言えぬ昭和一桁・・・
自慢にはならない…!!



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