so-13 古いアルバム

  
JIJI 72才                         JIJI 2〜3才


長女・かおり5ヶ月
そっくり! と思うのは親ばか??



かおり カット画
  当事、映画のスチール写真から、印刷用のカット画を描くのも
東映宣伝部での仕事でした。 娘の写真をペン画にした(上図)が残っていました。
若かった父親の愛情の記録です。


浦和駅西口南第四地区再開発反対

最近のJIJI

偉そうなことを言うけど?JIJIはこんな幼年期からずっと…ここ(浦和)で過ごし育ってきたのです。
昨日今日浦和に住み付いた、都市化開発計画の<利権屋>と、街に対する愛情の有り方が違うのです!!
街の活性化と発展は大切な事項です。 然し、利権本位になり街本来の姿や特性を見失うのは破壊です。。。
みどりの街宣言をしてきた
URAWAが歪んでゆくことを愁います。。。




URAWA西口南第四地区第1種市街地再開発と称する、歪んだ開発がごり押しされ、
72年間住み慣れた、街のド真中から追われ、緑区芝原…
郊外の通称<見沼たんぼ>の辺ホトリ
第三の人生の再設計スタートをしなければならなくなりました。
コンクリート・マンションを排除、自然に優しい木造建築による画廊YAMAに夢を託しました


1/50完成予想模型
失われた<孫たちの田舎>を確保したいのです!!

    
   JIJI 1才(父務撮影)
昭和6年     曾JIJI 務 米コロンビヤ大学々生当時1921年      曾JIJI 晩年(82才)昭和48年花月

父の残したアルバムの整理を始めたら、懐かしい写真が出てきました。
独断と偏見による編集をして、孫たちに<過去のてがかり>を残そうと書き始めました。。。

 CLICK
曾JIJIと 君たちのママ、かおり・雅子  絵は50号
油彩
君たちのママをモデルにして2階のアトリエで50号の油彩を描きました。
そのときに、ママ達のお爺ちゃん
務つとむとアトリエで写した写真です。昭和48年でした・・・


雅子 油彩6号

  
           島田慶三(曾曾爺ちゃん)と澄江(左端)       JIJIの両親・澄江(曾婆ちゃん)務(曾爺ちゃん)  

 
 山ア安太郎・まつ(務の両親)曽曽父母

島田慶三(曾曾爺ちゃん)は埼玉師範学校の校長でした。 
父方の山ア安太郎・まつ(務の両親)は群馬県の
貧乏士族だったようです。

父・務の青春

1922年頃  右はシカゴの料理専門学校
JIJIの父・務はアメリカに渡り、苦学しながらコロンビヤ大学を卒業
漁師のアルバイトなどをしながら、安太郎(わたしの祖父)に、逆に仕送りして生計を助けました。
わたしの祖父安太郎が、他人の保証人をして、家・財産を無くしたのが見本ダと、
「借金するな… 保証人になるな…」と言うのが口癖でしたが、
辛い過去だったのか?父はあとは、何も語りませんでした。

つとむTUTOMUを略してトムTOMUとかトンちゃんと呼ばれていました。
祖父安太郎が、他人の保証人になって家・財産を無くしたのが余程辛かったのでしょう、
わたしが会社を辞めて商売を始めるとき、息子のわたしの保証人にさえ、なって呉れませんでした。。。
自立しろと言うのが根拠でした

そんな父・務にとってJIJIの<
絵描き志望>は<乞食志望>にみえたらしい??
絵描きは、遊び人の仕事と思っていたので・・・自立をしきりに説いた。。。


最晩年の父 94
 
晩年コロリと主張が変わって、手に職があるのは良いと、
しきりに息子自慢に変わった・・・

息子を認めた嬉しい変貌でした
 ♪♪^o^);;;

BABAに感謝 アルバムを整理しました


JIJI/BABAの青春… 結婚式の招待状 (デザイン峻)


  
BABAの両親・フク(曾婆ちゃん)章浩(曾爺ちゃん)           BABA 敬子と靖典叔父さん  

  
敬子高校受験・母・フク                      敬子・靖典・父・章浩  



敬子 (福満荘)


敬子・娘時代23才 結い綿

 其の頃のJIJI・・・会社東映宣伝部で・・・




結婚・上野東天紅

  

新婚旅行想いで







新婚旅行見送りの坂内家族



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