JIJI 72才 JIJI 2〜3才
長女・かおり5ヶ月
そっくり! と思うのは親ばか??
かおり カット画
当事、映画のスチール写真から、印刷用のカット画を描くのも
東映宣伝部での仕事でした。 娘の写真をペン画にした(上図)が残っていました。
若かった父親の愛情の記録?です。
浦和駅西口南第四地区再開発反対 最近のJIJI 偉そうなことを言うけど?JIJIはこんな幼年期からずっと…ここ(浦和)で過ごし育ってきたのです。 昨日今日浦和に住み付いた、都市化開発計画の<利権屋>と、街に対する愛情の有り方が違うのです!! 街の活性化と発展は大切な事項です。 然し、利権本位になり街本来の姿や特性を見失うのは破壊です。。。 みどりの街宣言をしてきたURAWAが歪んでゆくことを愁います。。。 |
URAWAの西口南第四地区第1種市街地再開発と称する、歪んだ開発がごり押しされ、
72年間住み慣れた、街のド真中から追われ、緑区芝原…
郊外の通称<見沼たんぼ>の辺ホトリで
第三の人生の再設計スタートをしなければならなくなりました。
コンクリート・マンションを排除、自然に優しい木造建築による画廊YAMAに夢を託しました!
1/50完成予想模型
失われた<孫たちの田舎>を確保したいのです!!
JIJI 1才(父務撮影)昭和6年 曾JIJI 務 米コロンビヤ大学々生当時1921年 曾JIJI 晩年(82才)昭和48年花月
父の残したアルバムの整理を始めたら、懐かしい写真が出てきました。
独断と偏見による編集をして、孫たちに<過去のてがかり>を残そうと書き始めました。。。
CLICK
曾JIJIと 君たちのママ、かおり・雅子 絵は50号油彩
君たちのママをモデルにして2階のアトリエで50号の油彩を描きました。
そのときに、ママ達のお爺ちゃん務つとむとアトリエで写した写真です。昭和48年でした・・・
雅子 油彩6号
島田慶三(曾曾爺ちゃん)と澄江(左端) JIJIの両親・澄江(曾婆ちゃん)務(曾爺ちゃん)
山ア安太郎・まつ(務の両親)曽曽父母
島田慶三(曾曾爺ちゃん)は埼玉師範学校の校長でした。
父方の山ア安太郎・まつ(務の両親)は群馬県の貧乏士族だったようです。
父・務の青春
1922年頃 右はシカゴの料理専門学校
JIJIの父・務はアメリカに渡り、苦学しながらコロンビヤ大学を卒業
漁師のアルバイトなどをしながら、安太郎(わたしの祖父)に、逆に仕送りして生計を助けました。
わたしの祖父安太郎が、他人の保証人をして、家・財産を無くしたのが見本ダと、
「借金するな… 保証人になるな…」と言うのが口癖でしたが、
辛い過去だったのか?父はあとは、何も語りませんでした。
つとむTUTOMUを略してトムTOMUとかトンちゃんと呼ばれていました。
祖父安太郎が、他人の保証人になって家・財産を無くしたのが余程辛かったのでしょう、
わたしが会社を辞めて商売を始めるとき、息子のわたしの保証人にさえ、なって呉れませんでした。。。
自立しろと言うのが根拠でした
そんな父・務にとってJIJIの<絵描き志望>は<乞食志望>にみえたらしい??
絵描きは、遊び人の仕事と思っていたので・・・自立をしきりに説いた。。。
最晩年の父 94才
晩年コロリと主張が変わって、手に職があるのは良いと、
しきりに息子自慢に変わった・・・
息子を認めた嬉しい変貌でした ♪♪^o^);;;
BABAに感謝! アルバムを整理しました!
JIJI/BABAの青春… 結婚式の招待状 (デザイン峻)
BABAの両親・フク(曾婆ちゃん)章浩(曾爺ちゃん) BABA 敬子と靖典叔父さん
敬子高校受験・母・フク 敬子・靖典・父・章浩
敬子 (福満荘)
敬子・娘時代23才 結い綿
其の頃のJIJI・・・会社東映宣伝部で・・・
新婚旅行の想いで
新婚旅行見送りの坂内家族