yo-10

    朝鮮ぶな


わたしの幼年期の浦和は、実に豊かに自然に囲まれていた。小学校にあがる昭和13年頃
第三踏み切りの傍(仲町)から線路の反対側の高砂小学校の隣… 現在の場所に越して来た。
浦和駅にも近く、ずっと開けた場所だったが、今のような商店街ではなく屋敷町だった。

月日の移り変わりは、アッという間にこの一帯を商業地にかえてしまったが、
行政は更にマンション化しようと、現在、強引な政策を進めている!!

引っ越してきたときわたしの家の表は数奇屋の門の有る塀囲いのしもた屋だったが、
時代の移り変わりと共に、立て替え建て増しを重ね現在の店のある二階家になったのだ。

ほぼ100坪の敷地の南は垣根を隔てて、MさんとKさんの2軒長屋で
北側の2階建ては同じころ銭湯になった。今はそこは駐車場だ。
家の西側は弓の的場のあるYさんの家、そして紺屋の張り場がわたしたちの遊び場
掘り抜き井戸がほとんどの家の軒先にあった。
浦和は水の良い処で、其の頃は、都市水道も<県南水道>といって地下水を汲み上げていた。

隣どうし垣根越しに良くお付き合いした覚えがある。加えて戦争が勃発し<隣組>とか言う
組織が出来て、ますますお付き合いと繋がりは増した・・・

この辺の記憶になると、サスガにフル・ネームで覚えているが、略号で書くことになる・・・
二軒長屋のKさんの家はわたしよりかなり年上のお兄さん3人とお姉さんがいて、
とても可愛がって貰ったが二人も<肺病>で亡くなった。
当時、肺病は不治の病とされ、近寄るな…と言われてたが良く遊んで貰った。

亡くなった方の兄さんが、縞へびの蒲焼を食べさせて呉れた記憶が有る。美味しかった!
もう一人の兄さんが、線路脇の田んぼの用水に<朝鮮鮒>すくいの隠れ場に連れてってくれた。
狭い溜まりで、ビックリするほど掬えた記憶がある。

鉢に二匹入れると体の色を変えて喧嘩することも教わったが、其のお兄さんも早く亡くなった・・・
その<穴場>のあたりも、いまはビルなのだから恐ろしい。
近所付き合いも<開発を挟んで>殺伐とした人情が跋扈しているのが嘆かわしい・・・




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