yo-11
小学校入学
家の傍の高砂小でなく、今のさいたま市役所庁舎の傍の「県立師範学校付属小学校」に通った… 今居る現在の場所から16号国道を渡った、2km程の距離だ。 いまから見ると16号国道は普通の道だが、幼児にとっては道幅が広く、渡るのに怖かった。 交通量は今と比較にならないほど少なかったが、事故に遭いそうになった事もあった。 今でもその恐怖は覚えているが、ドラックの前を駆け抜けようとして、 片足のズックだけ車にもぎとられ、踵(かかと)が赤く剥けた。 降りてきたトラックの小父さんに、エライ怒鳴られた・・・親には理由は言えなかった。 当時は戦時体制で、小学校と云わず<国民学校>という呼び方をした。 <通学班>というものがあり、誘い合わせて通うのがつねだった。 幾つも想い出があるが、それは別項で書くことにしよう・・・ 家の周りは高砂小の勢力圏内で、よく苛められたので、大通りに出るまでキョロキョロしてた。 ♪オットコォートォ オンナァアーノォ マァーンメーンジンッ と囃された。 麗和幼稚園から付属小学校に行くのが、あのへんの嬢ちゃん坊ちゃんの、一つの進学コースだった?? 付属は、当時としては珍しく男女共学で、然も6年間通して、原田豊助先生の持ち上がりで過ごした。 ♪オットコォートォ オンナァアーノォ マァーンメーンジンッ はそれを揶揄するはやし言葉だ。 わたしは小児麻痺で軽いびっこだったから、それを囃されるのが大嫌いで囃す奴には結構やりかえした。 子供というのは、案外残酷なもので、昔からいじめはあったが陰湿ではなかった。 仇(あだ)の想い出が三つある… 今から思うと危ない事をしたもんだと汗顔の思いがする。 何時も泣いて帰ってばかりいるので、母に 「たまには泣かしてきなっ!」 といわれたものだ・・・ 雨の有る日、学校帰りに長谷川くんと云う子に、びっこを囃されて、蝙蝠傘をふりまわして彼をドブに落とした。 長谷川くんがどぶ塗れになって大泣きした。 また有る時は、足利赤十字病院名誉医院長になつた奈良昌治くんの眉間に石をぶつけて、母と謝罪に行った。 びっこの真似をした奈良くんがわるいんダっ…とおもって、納得がいかなかったから覚えてる。 もっと恐ろしい想い出は、薬科大学教授になった加藤仁くんに仇返し、したキケンな事件だ。 加藤くんもたいへんな暴れん坊で、運動を得意としないわたしが、砂山を造っていると 何遍でも走ってきて踏み潰す・・・ 何処で拾ったか覚えがないのだが釘を仕込んだ・・・ ご想像の通りだ、ギャーッと云う事になった。 わたしは、原田先生に其処へ正座させられて、忘れられたのかと思ったほど脚がしびれた。 みんな同じ中学・高校に学んだ仲間だった。 あとはごく普通の小学生だったと思う、絵や工作が上手かったと、昔仲間が言うが記憶にない。 親が保存しておいて呉れたので、其の頃の絵が今も残っている。 むしろ、音楽が得意で、後年高校で合唱部に入ったり、NHKの素人ノド自慢に出場して 浦和駅前で鐘三つ鳴らした覚えがある。本名ではなく叔父の名前で出たのは誰も知らないだろう。 母の弟の名前で島田淑雄と言った・・・ 小学・高校の学芸会で独唱をした記憶が有り、講堂の演壇の記憶が残っている・・・ 結構、大勢を前に独唱するのは快感ナノダ |