yo-16



 台湾の叔父


父は男二人兄弟で、祖父は群馬県に流れ着いた貧乏士族・山崎安太郎と言った。
流れ着いた群馬・藤岡の良家の娘・水沼まつと、いい仲になって、生まれたのが父と叔父・義一だ。
父は、なんにも言い残さなかったから、父方の先祖について何も判らない。

只、若いときに汽船でアメリカに渡り、苦学してコロンビヤ大学を卒業したことだけは聞いた…
アメリカでの苦学のなかで日本の親に仕送りもしたらしい…

安太郎が他人の<保証人になって>財産を無くし
まつ(わたしの祖母)に苦労を掛けた安太郎を悪く言った・・・
<保証人にはなる>が口癖で、わたし達夫婦が商売を始めた時も
保証人に成って呉れないガンコさだった!!

兄弟二人とも教育畑のカタぶつである事に於いて共通していた。 クリスチャンでもあった。
父が95才、叔父が100才迄長生きした。父の良き相談相手の叔父だった。
どちらも、亡くなるまで呆けなかった。

叔父・義一と叔母・みち夫婦は、叔父が終戦まで台湾の現地人小学校の校長をしていたので、
台湾で、羽振りのよい官吏ぐらしだったようだ。
たいわんのおじさん・おばさんと呼んでいた。 6人もの子沢山で戦後日本に帰ってきた・・・

男の子に恵まれるまで生んだ結果が6人で、末っ子の唯夫くんは大学の先生になったが、
若くして急逝… キリスト教の葬儀での、叔父・叔母の悲しみようは痛ましかった。

台湾の叔父は日本に帰って、浦和郊外の土合・町谷に住んだので土合の叔父と呼んだ。
つちあいのおじさんの家や、アトリエにした納屋を譲り受けた、博労武井さんの家のあたりは
彼方此方に用水があり、自転車で魚捕りに行った。 鮒やどじょうがよく釣れた。

戦後、食料の確保のため、衣類や、骨董を農家に持っていって農作物と交換するのを、
買出し>と云ったが、物々交換の芋や米を運ぶのは近場で、自転車だった…
伝手のある農家があれば、遠くまで汽車に乗って<買出し>に行った。

買出しの行き帰りに見つけた堀や用水は、大抵魚が居た… それが又一つの楽しみだった。
 ここ50年そこそこの歳月は、
そんな環境を無くし、用水や水辺は無くなり宅地化して昔の面影はない。
この変貌−環境破壊は恐ろしいと思うのだが、行政は短絡的に発展だと思っているようだ!?

自然擁護論の長野県知事がリコールされたり、尾瀬沼の自然管理の中心人物が汚染の元を作ったり…
環境維持と、いわゆる生活環境改良の攻めぎ合いは、そのバランスが難しい!!

生活環境改良は自然破壊に繋がりがちである。100年-200年のスタンスで考えるべきだ!!



inserted by FC2 system