yo-19

 防空壕::陛下の食料?


これは、戦争末期のJIJI青年の想い出の記録です。 
戦争末期の関東地方は、毎日のようにアメリカの爆撃機B29や、艦載機の空襲を受けました。
悔しいほど、迎撃する高射砲も戦闘機も日に日に減って行くのが解りました。


各家庭の庭にも、学校にも街にも至る所に、空襲に備えて<防空壕という穴>を掘ってそれに備え、
大切なもの等は地下に入れました。 食料貯蔵庫(冷蔵庫)でもありました。
艦載機の攻撃や、危険・火災の時は、人間も其の穴にもぐり… 家いえによって、中の居住性に工夫を凝らしたものなのです。

JIJI青年の家には防空壕が、2ケ所あり、
一つは家の真下…貴重品・食料用、もうひとつは避難用で庭先…地下深く3-4mくらいに小部屋をしつらえてあった
土質は関東ローム層(赤土)なので、穴掘りにはくずれないから向いていた。
自分たちの家族労働… シャベルで土掘りし、バケツで土を上げた。
無け無しの支え木で土止めし、庭全体が高く成る程、土を盛り上げた。
敵上陸に備えた、軍事教練 <竹槍訓練>とともに、まず効果は無かった・・・

竹槍訓練>と言っても、わからない方々がほとんどだろう?? 日本は平和ボケしてしまっている。
竿竹の先を斜めに削ぎ、正月の門松のように切って軽く焼き、硬く炭化させこれで槍にして<戦え!>と云うのだった。
重火器に竹槍で対抗しろ… と言っても所詮無理な話だったのだ。

戦争・爆撃・火災・・・それらに晒されているアフガンの人々はいま<防空壕>の必要の中で生きている!!
日本人は平和過ぎて、平和ボケしてしまっている。 同情すら忘れている。


JIJIの住む浦和の一部が空襲で燃えた夜、JIJI青年は当直で浦和中学に詰めていた。
自分の家の方向一面の真っ赤な空を見て、もう焼けている??ダメダと思った。

翌日、県庁から(旧)浦高のあたり一直線が被災したと知った。 自分の家は大丈夫だった。
被弾して逃げるB29が、逃げながら弾倉をカラにするため焼夷弾を撒いたとのことだった。
落下傘で降りた米兵が捕まったと云うので見に行った…
焼け焦げた建物の、浦高の校庭(現在:あさひ銀行の本社屋の場所)に
後ろ手に縛られた米兵がぐったりして座らされていた。 処刑されたかドウかは知らない。
戦争の現実を、目の当たりに無残に感じた。
 焼けた浦高(旧制)の校舎は陸軍糧秣省の施設に徴用されていて、人身に被害は無かったが、
山積されていた、軍事用<糧秣(食料)>が被害に遭った。

何日か経って、浦和中学の校庭に真っ黒に焼け焦げた缶詰の山が出来た・・・
浦高・糧秣省で被災した粉ミルクの山だった… キャラメルを燃したような甘い香りがした。
誰が始めるともなく、それをスコップで割ると芯の部分がまだ炭にならず白いのを見付け、群がった。
わたし達は学徒動員で、毎日穴掘り作業をさせられていた・・・
甘いものやミルクなどお目に掛かれない時代だったのだから・・・

くぅらぁーっ」 突然目先が真っ白になった。
教練のとき、ラッパのような声で号令を掛けるので、ラッパ軍曹と呼んでいた教官だった
立て続けに何発か?歯がぐらつく程の鉄拳をもらった。

陛下の食料を盗むとは、なんだァァァーーーッ
何時の間にか?みんな逃げてしまっていてだれも居なかった!!!
くそっ! 間抜けだったんだーーぁっ??? 情状酌量だったのか?ゲンコツだけでお咎めは無かった。

穴掘り作業は、防空壕掘りと、野積みにした糧秣物資の下に、雨水が流れ込まない為の
溝を掘る作業だったが、夜中に新品の糧秣盗みを企てた猛者は厳重に処罰された。
退学と云うキツイ処分だったと思うが、間もなく<終戦>で退学は無効?になった。



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