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幼稚園・・・


埼玉県庁は昔から、今ある高台の上にあって、高台の下はどぶ川だった。
裁判所も県庁と同じ高台の、今のビルが出来て移転してから、随分うらわも変わった。

現在の埼玉県庁の下、ホテルの前の路は、南北に伸びる2m幅位のドブ川だった。
今は暗渠(あんきょ)して車の往来の激しい大道りがそのうえに出来て誰にも解らない・・・
今埼玉県庁の別館になっている当たりは、
黒板塀に囲まれた県庁官舎と呼ばれるお屋敷街だった。

祖母の家はそのどぶ川の脇にあった。
昭和のはじめ浦和駅前で駄菓子屋をしてたそうだが、
(わたしが幼稚園に通うころには埼玉師範の校長だった?という祖父は、居なかった。。。)

其のどぶ川のへりの、しもた屋に移り住んでいて
<麗和幼稚園>のすぐ傍だったので、よく祖母の家に寄り道した。
其処は
常磐町と云い、赤レンガ塀に囲まれた、ものものしい裁判所庁舎も其の傍にあった。



うらわ市役所も其のすぐ傍の木造建物だった。埼玉師範学校の跡地に移転したのはずっと後ダ!!

<麗和幼稚園>は蔦のからまる鐘突き堂のあるコンクリートの洒落た建物で、いまもあるが、
周りに高い建物がどんどん建って、目立たなくなってしまった・・・


浦和の名門幼稚園で、ほとんどの友達が同じ小学校に一緒に上がった。
もう、とうに亡くなられてしまったが、ひさなが先生の優しさは忘れられない。
キリスト教の幼稚園で、何も知らずに賛美歌を唄いアーメンを唱えた…



幼稚園では目立たぬ子供だったと思う… 園内での想い出は、一段低い小さな庭にシーソー滑り台
有った事と、学芸会で羊飼い役の誰か?のあとを白い布切れをかぶって這い回った記憶位きり無いのだ。


わたしは今のJR線線路を渡った反対側(仲町)から通ったので、
いつも 「線路に気を付けて渡るよう」口をすっぱくして言われていたが、祖母の家に寄り込んだり
あちこち寄り道や冒険を楽しんでのんびり通った。 それらの記憶は鮮明にある・・・

分けても気に入っていたのは、幼稚園の隣が日本刀の磨ぎ屋でピカピカ切れそうな刀を
磨ぐのに見とれたり、その前のどぶ板の下が先のどぶ川まで10m程のトンネルになっていて
そこを潜って歩くのも、たまらない冒険だった。
日本刀の磨ぎ屋の反対隣りは洋服の仕立て屋で、

職人が切ったり縫ったりしているのを見るのも飽きなかった。
幼稚園の斜向かいは時計屋で、片目がねの小父さんが時計を弄っているのを飽きもせず覗いてた。

わたしの家から第三踏み切りを渡ったすぐ傍が叔父の家で、ここでも良く寄り道した。
成人した頃、わかったのだが、その往復の路地の両側は、芸者置き屋で、三味線の音などが聞こえてた。
姉の踊りの先生の家は染物屋で叔父の家のすぐ傍だった・・・



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