山崎敬子想い出 200912月起草)
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1:学童疎開
  昭和10711日、坂内章浩フクの長女として東京の中野で生まれました。

 
初めての写真・母フクと父章浩          私と弟・靖典 母・フクと…

  幼稚園に行く頃は中野から引っ越して、阿佐ヶ谷に住んでいました。
まだ、当時の阿佐ヶ谷は、都会化していない長閑な街並みで、
一面の畑や田んぼの中を、のんびり学校にかよいました。



  敬子5才弟・靖典4才


 昭和16年(1941年)、太平洋戦争が始まった頃、杉並第二小学校の、一年生になりました。
私(歳)の下には靖典(歳)と章(歳)が居ました。


三年生の頃、空襲に備え疎開が始まり、
私と上の弟は母の実家・会津柳津町小野川へ疎開させられました。

 祖母の家は大世帯で、祖父母・伯父伯母・従兄弟・奉公人、、、総勢16人、、、
其処へ加わったのですから、辛い思いをしました。
毎晩家へ帰りたくて床の中で泣きました

 柳津小学校迄(片道)6キロを歩いて通学したのです。
靴など無くて藁ワラぞうりを自分で編みました。
幼い子供の編んだ草鞋ですから、すぐ破けて血豆が出来たり生爪をはがしたりしました。
草履が切れると、砂利道を裸足で帰って来たものです。

年上の従姉妹には、良く遊んでもらいましたが、、、
私だけ奉公人と畑や山へ手伝いに行かされて、帰りには必ず薪を背負いました。 
子供なりに気兼ねと遠慮があったのです。
いつも昼食はさつまいも、、、代用食のさつまいもを皮をむいて食べて、
贅沢だ、皮も残さず食べろ!」と云われて泣きました。

 ある時、祖母ちゃんが、私を鶏小屋へ連れて行き
「栄養だから…飲みなさい…」と、なま暖かい生みたての卵を
呉れたのですが、祖母の気持ちが、解っていても、気持が悪くて、、、
飲めなかった想い出は、懐かしく悲しい・・・

弟は同い年の従兄弟から随分いじめられていました。
 学校の先生をしていた叔父さんが見るに見兼ねて
子供が可愛そうだ、連れて帰りなさい、、、死ぬときは一緒、残った方が可哀相だ」と、
東京の両親に連絡をしてくれて、父が迎えに来ました、
その帰り、東京行きの列車の中で、初めての空襲警報が鳴ったのを聞きました。

  
 東京に帰ったものの…毎日、来る日も来る日も、夜も昼もなく空襲攻め
一日も学校へは行かれずに、再び疎開することになったのです。

 3月10日の大空襲で、東京は、焼け野原になり、
その空襲に、母と下の弟・は逃げ遅れ、家の押入れの中、、、
私と年子の弟・靖典は、庭の防空壕へ逃げ込みました。 
3日間、離ればなれ 何を食べていたのか覚えていません。

空襲警報が解除になり、家の中へ入ってみて吃驚
不発の焼夷弾が畳に突き刺さっていました。
燃えなかったのが奇跡でした。

それから間もなく、23日に押入れの中で、
末の妹・教子が生まれました。
私は、お産婆さんを呼びに走ったり、、、お湯を沸かしたり、おむつを洗いました。
10才の子供にとっては、とても大変でした。
父は職場を守って待機していて、ずーっと留守でした、


 戦争は益々酷ヒドくなり、まだ首の座らない教子を負ぶった母と、会津へ疎開しました。
昭和20年4月29日(終戦の3ヶ月前)でした。 
何故か?此の日にちを、鮮明に記憶しているのです。

東京は見渡す限りの焼け野原でした。
母に、「見納めだから、良く見ておきなさい…」と言われたのを思い出します。
柳津へ引越し4ヶ月後、、、昭和20年8月15日、其処で終戦を迎えました。

父は田舎へ帰っても仕事がない、、、と東京に残ったのです。
会津で、沢山の思い出の幼年時代を送る事になりました

 12には更に、柳津より奥の宮下汽車の終点)に引越し、伯父夫婦宅に寄宿、、、
(伯父さんが20才若い伯母さんと結婚して、割烹料理屋を始めたので、
母が手伝うため、同居したのです。)

 又、1年して、今度は滝谷温泉に引越しました。 私は6年生になっていました。 
母が旅館業を始めたのです
(後の福満荘芦の牧グランド・ホテルのスタートでした)

滝谷温泉は母の実家が権利を持っていたのですが、経営する人が居なかったのです。

水道もガスも無く、毎日離れた山水の井戸に、水を汲みに行くのが仕事でした。
雪の日は滑って転んで、又汲みなおし… 家に着いたらほとんど空、、、
そんな思いで、何回も何回も汲みに行ったものでした。
風呂桶のような大きな入れ物に、一杯にならないと遊びには行けませんでした。

お習字を習いに行って、どうしても手が震えて上手く書けなかったのですが、
重い物を持ち、力を入れ過ぎていたから、手が震えたのです??
其の頃の私には、それがなぜか?解りませんでした?

小学校 卒業の頃、今だに忘れられない、嫌な事がありました。
受け持ちの先生に、「宿直室へ泊まりに来い…」と言われたのを、
断った事から始まった?のですが差別がたびたび???
其の時、6年生3学期の級長をしていたのに、
卒業式の総代で、表彰状を受け取りに出る筈?も外されました。

其の年、兄弟3人が優等生だったので母も表彰され、招待されていた前で…
関係のない男子が卒業生代表になりました。差別されたのです?。

卒業式の帰りの列車で、先生にデッキへ呼び出され、
「お前を総代にしなかったのは、3日欠席が有るからだ、、、」と
理解出来ない?理由を告げられました。
先生の嫌がらせは、其の後、下の弟の担任に成ってからも、続きました)
何年か後になって、人ずてにG先生は後悔していた、、、と聞きました。


下宿中学高校

中学生の3年間、滝谷から宮下を汽車通学(20分位)しました。

高校は、更に遠い、2時間かかる会津若松の会津女子高校へ越境入学しました。
勉強は往復4時間の列車の中でした。


会女入学記念母と・・・

母が3時に起きて、御弁当を作って4時半に起こして呉れたのですが、
起き抜けで、朝食を食べるゆとりが無く、お弁当だけ持って飛び出したものです。

学校に着いてすぐ、お弁当を朝食にしたのも、汽車通学の思い出です。
お弁当は朝食にし、お昼はパンを買ったのです。(^o^);;;
商売をしながら、、、ですから、母はとても大変だったろうと、
親になってみて、よく解りました。

弟・靖典が会津高校へ入ってから、滝谷では、交通が不便なので、
弟と二人で下宿。自炊しながら、会津若松に住みました。
七輪で炭を起こし、ミカン箱をテーブルにして食事、お弁当も作ったのです
なにを食べていたのか???

下宿は、 なかなか居心地のよい処が無く、
玄関脇の3畳一間で、落ち着かなかったり、、、

台所のお米が、留守の間に、少なくなってたり?、、、
帰宅して、ご飯の支度をしようと部屋の、ガスコンロを触ると熱い?
(私達が帰る前に使われて??)

姉弟二人で4〜5回も、転々としました。


弟・靖典の高校合格記念、父章浩と敬子

週末、家から通学する朝、ドカっと大雪が積もった時は、
駅まで辿り着くのが大変!
駅長さんが列車を止めて待っていてくれて、
5分も10分も汽車の発車を伸ばして呉れました。
滝谷の駅からは私一人しか乗らないので、路も付いて無かったのです。

帰りに「昨日は4分も待ったんだぞ…」 「今日は10分もだぞ…」
温かい駅長さんの雷を貰いましたが、随分助けられました。

今では考えられない事ですが
滝谷は、電話も無くて、風邪で休む時も、連絡出来ない僻地だったのです。



 芦の牧・福満荘開業

高校卒業と同じ頃、親戚の紹介で芦の牧へ引越しました。
母が滝谷温泉での経験を生かし、旅館福満荘を始めました。
(柳津の”福満虚空蔵尊”から名前を戴きました)
昔から芦の牧には、湯治場が3軒あったのですが、
村興しで山林を切り開いて1000坪の区画で開発をしたのです。

芦の牧温泉の開拓者として、電気もガスも水もないところに
路を造ることから始まりました。

新しく造った山の斜面の道路は、砂利を入れても入れても埋まってしまい、
山林の開発からですので大変でした、、、電話も初めて引きました。
水が無いので温泉のお湯でご飯を焚いたところ、大工さん始め皆が下痢をした事も
懐かしい思い出です。 飯場の食事も私の仕事でした。

母の手となり足とならざるを得なかった私でした。
最初は木造二階建てで、13室でした。。。
若松までバスで1日何回も、買い物に往復しました、、、夢中で働きました。

珍しさもあり、バス停から我が家行列が出来る程の繁盛でした。

1年経った頃、男手が欲しい、母の希望で、父が退職して帰って来ました。
しかしアルコールを1滴も飲めない上、役人だった人ですから
頭が高い父の分、母が倍、頭を下げて居ました。

わたしは、冬は若松に家を借りて、中学へ行く弟・章や妹・教子の食事を作り、
お稽古事をして (お花、お琴、日本舞踊を習い) 週末には生花を買い
旅館全室に花を生けるのが仕事でした。

母は父のために、旅館の前にテニスコートを造って上げて、
父は時間潰し?に、友達と、よくテニスをしていました。
(父はママさんテニスの会長をしたり、国体の審判をしました)

其の頃、芸者さんが7〜8人いて、足りない時には東山温泉から呼んでいました。
売春も??、お金さえ出せば一晩泊める事も出来たのです。
翌朝、お会計をするのに、顔を見るのも、お金を受け取るのも、汚く感じた娘時代でした。
売春は、禁止法が出来るまで、永い間続いていました。

弟・靖典の大学の受験を助けたのも此の頃です。
親は大学は反対で、板前の修業をさせたかったのですが・・・弟は受験希望・・・
そこで私の独断で、受かってしまえば大丈夫だから?と…
親に内緒で、下宿先からお金とお弁当を持たせて受験に送り出したのです・・・

幸い受かったので、親も認めてくれて、二人で上京、、、下宿生活をしましたが、
弟は国分寺、、、わたしは高円寺の寮へ入りました。

わたしは編み物学校料理学校を掛け持ちをしました。
先生から「二兎追う者は一兎を得ず」と言われましたが、、、
頑張りました。

欲しい物だらけ?? お金が足りず (^o^);;;
材料の毛糸を倹約し、作品が返ってくると、
ほどいては編み、編んでは、ほどき、、、
消灯時間が過ぎても、廊下の灯りで編んだりして、頑張りました。

教師の資格を取る学校だったので、お稽古事の気分で入った人は
着いて行けなかったのです。
友達は模様編みの凝った作品を競って編んでいましたが
「わたしはメリヤス編み科?卒業」と、威張って居ました。

編み物のベテランで、資格を取る為の人達に囲まれて必死・・・
入学時には600人だった生徒が、卒業した時は160人になっていました。



料理編み物、両方共資格が取れて、芦の牧へ帰りました。

商売は軌道にのり、忙しい毎日でしたが、父が胃潰瘍の手術で入院…、
母は付き添いで、2週間留守 わたしが留守の旅館を一切任されました。
其の間の忙しさ、、、溜まったお金の置き場に困って、
畳を剥がして、下へお金を敷き込み、その上へ寝ました。
とても緊張した毎日だった事を、懐かしく、覚えています。



結い綿のわたし 22才のころ…

旅館福満荘は順調にのびて、大広間の新築・落成工事も完成、、、

落成式が二日間に亘り盛大に開かれ、晴れの舞台で、私は琴の演奏をしました。
(♪さくら幻想曲は其の時のテープです。)
120畳の大広間は会津では、一番に広かったので、話題でした。。。


お琴の先生から縁談を進められました、、、其の話をお断りしたので、
顔を潰された先生から、辛く当たられました。 
とうとう耐えられなくて”春の海”の途中でお稽古を止めました。
お断りしたのは、いま民主党の大御所・会津弁のW.K.さまでした。 ^o^);;;


<  お見合いと結婚 

36年のある日のこと、夜中、父に起こされ 
「明日の朝5時に、東京からお前に会いに来る人が居るから起きているように」
突然言われ吃驚しました。(今の主人でした)

翌朝、わざと割烹着を着て、手ぬぐいを被って出迎えました。
其の時、女中さんが先に知っていて,、こそこそと 
「あの写真の人ね…」とか言って居るのを聞き、、、
ますます面白くなく、臍を曲げ、 (^o^);;;
彼が、夜行で来て、ゆっくり休んで寝ているうちに、
家を抜け出し、バスで若松へ遊びに出掛けてしまいました。

友達のところで時間を潰し、最終で帰ったら、帰ったはずの彼がまだ泊まって居たのです。
わたしに会わずには帰ることが出来なかったとか・・・
縁とは不思議なものですね?…赤い糸ってあるのかなと…ぼやかして置きます。

主人と結婚が決まり、、、
わたしの結婚式の立ち振る舞いお披露目式も120畳の大広間でしました。
上野池之端東天紅での結婚式の前に、
親戚・ご近所に、結婚のお披露目の式立ち振る舞いをしたのです。



母フクのお酌・・・ 会津福満荘 大広間・立ち振る舞い(お披露目式)

JIJIの想い出日記から
CLICK JIJIの告白^o^);;;


想い出のアルバムから…



九州で、、、新婚の頃…

想い出のアルバムから…


主人デザインの結婚式ご招待状
(木と木が手を繋ぎ<気が合う…>なのだそうです)


結婚式ご招待状


3/9 上野池之端:東天紅で・・・




 5 旅館全盛期と引退 

福満荘>は事業を広げ、鉄筋の新館工事が進められました。
昭和38年10月3日、新館工事明け渡しの直前に火災で
木造部分の旧館がClick火事で焼け落ちました。。。
バブルの前でも有り、みなの協力で旅館は程なく復活し、

建て直し復興は順調に進み、弟・靖典が社長になり、
芦の牧グランド・ホテル改名・脱皮して、全盛期を迎えました。
日本交通公社の全国人気旅館100選東北No-1旅館にも選ばれ,
お客さまの応援で、順調に業績を伸ばし、
姪・美和が、鬼怒川あさやに嫁ぎました。


姉妹館<ビューホテル>も開業、そちらは、下の弟・が社長になりました。。。
全館木造三階建て、、、芦の牧一の景観
全室名が白虎隊の名前、白虎玄武など付けられた純和式の旅館でしたが、、、
全館木造三階なのが、消防法に触れ、従業員宿舎にして、営業を止めました。

日本交通公社の全国人気旅館100選東北No-1旅館も、
やがてバブルが崩壊して険しい時代に入って行きました・・・

バブルの崩壊で旅館業に陰りが出始め、
芦の牧グランド・ホテルの権利を他人に譲り、
弟・二人ともホテル業を止め、自適の生活になりました。


<追記>
父は作詞を趣味にしていて、猪苗代哀歌(唄:松山恵子・東芝レコード)
芦の牧音頭
芦の牧甚句古城の哀歌等の
レコードの作詞を残しました。


グランド・ホテル落成式の時、父とわたし・・・

地元の歌番組では、審査員などもしていて地元の有名人でした。
芦の牧温泉の旅館も15軒に増えて、父は組合長もしていました。
ひまがあれば何時も、街の知名人と、大好きな麻雀をしていたものでした。
(平成元年、82才、脳血栓で永眠しました。)

葬儀の時、父が生前、辰巳叔父(父の弟)に、
敬子が居なかったら、福満荘は此処までに成れなかった、、、と、
言って居たと、聴きました。 
…で、心から、報われた気がして、父を見直しました??。

先日、父が作詞をした芦の牧音頭 芦の牧甚句
 猪苗代哀歌 古城の哀歌(唄:松山恵子)のCDを弟から預かりました。
残念ながら古いレコードで聴けません??。


 
2014/03/21

久し振りに書き足しました、 ^o^)♪ 記憶が前後しますのであしからず。


平成24(2012)年、3月9日 金婚式を祝いました
50年間よくぞ辛抱しました…自分に大きな勲章を

今が一番幸せ?かな?辛かったことは忘却のかなたへ・・・
終り良ければすべて良し としたいものです。
^o^);;;



2017年 新年:酉年を迎えます

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2016/12/12記



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